会社沿革

昭和24年4月
『神奈川県愛甲郡清川村にて初代故大高修次郎により建材業を興す』

建材業でも建築用木材や燃料用木材等を扱っておりトラックをチャーターし地元林業より収集した木材を横浜方面に販売するといった建材業で、先代31才、太平洋戦争より帰還後2年が経過した時でした。

昭和27年4月
『コンクリート建造物の増加と共に商品を木材から骨材へと変える』

厚木市の相模川では河川敷の原石を手振いで砂利と砂に選別する人が次々に増えて行き念願のトラック1号車は米軍おさがりのGMC4t車でこれぞ弊社の原点建材業の誕生であり手振いされた砂利・砂をブロック工場や橋梁現場への販売がスタートしました。

昭和29年4月
『戦後の復興と経済成長の勢いで大量生産が必須になり「チャンガラ」と言われる外国製の選別車により生産と販売両方を手がける事となります。』

チャンガラとは今の10tダンプのシャシーに選別機があり河川を掘り進みながら砂利と砂に分ける外国車輌で現在価格にすると新車で3500万程度、もちろん今のアジアの様に中古車でした。左ハンドルだった事を子供ごころにお覚えています。購入後こんどは厚木市中津川にて生産に入りこの頃ようやく国産の日産セントラル、三菱ジュピター、トヨタとダンプがデビューし(最大4t)歴史の浅い国産車は年がら故障し先代のぼやきをよく耳にしました。この頃祖父が他界しました。

昭和32年4月
『法により河川からの採取が禁止され弊社は宮ヶ瀬へとその拠点を移す』

同業他社は河川の外の水田の地下、いわゆる昔の河川を地主さんと交渉の上、砂利・砂の採取を続けました。それが神奈川最大手のO社、S社であり、大高は力不足でその事が出来なかったのです。

昭和33年4月
『宮ヶ瀬(現在宮ヶ瀬ダムがある)もわずか一年で国定公園に指定され撤退』

生産から撤退し販売会社に専念するも、あくまで砂利・砂にこだわり横浜方面の小売建材店(通称みせ)や小型造成現場への販売にとどまり一日当り10台前後の売上げが続きます。

昭和35年4月
『東京オリンピックがささやかれ隣りの神奈川は活気づき売上は一日当り20台を越えました』

新幹線や高速道路30階の高層ビル、建設ラッシュの中弊社はあくまで砂利・砂にこだわり都内大型生コン工場に昼夜のピストン輸送です。事務所を清川村から厚木に移し合理化をはかりました。道路がアスファルト舗装に変わり路盤材の時代が来ましたが当社はその波に乗れなかった様です。

昭和39年10月
『オリンピックが終り関東は不景気のどん底に、創業当時のコツコツ型経営に戻る』

会社を縮小することは案外むずかしく数少ない運転手さん達のわがままや不平不満が多く、先代にとってこの時期が一番辛い時期であった事を後に気付く事になります。またいつの世も拡大よりも縮小の方が勇気と知恵を含めたエネルギーがより必要だと今になって知る限りです。なおの事先代故大高修次郎・大高トメの偉大さにしみじみ気付くことになります。

昭和42年4月
『現社長大高信幸が高卒後入社する』

弊社にとって経済的に厳しい時期でありそれこそ過渡期と感じた入社でした。もちろん新入社員たった一人の春で、最初で最後と言うべき新卒でした。今思うにくだらない言い訳が通じる時代であり、それはその後30年近くも続く文化そのものであり、まさにアジアの中の日本でした。

昭和43年10月
『資本金300万円にて有限会社大高商店設立』

これではいけない。親子の意見は見事に一致、若者は営業に走りトップは経営を見直します。従業員の不義理を何回も経験したトップは起業の意義と責任を改めて実感した様に見えました。先代50才代に入り終戦から24年目。弊社の決算は9月末となりました。

昭和46年4月
『営業マンとしての未熟さがたたり3000万の焦げ付き債権が発生』

そろそろ所帯を持たすか。封建的思想と本人(現社長)の優柔不断から結婚するも後に破局になります。しかし次々と営業成績を上げ大きな生コン工場2社に砂利・砂の受注を成功させるも、その工場は2年で倒産しました。民間調査機関の発表では経営は北朝鮮系で計画倒産でした。当時で3000万程度の借金をかかえる事となりますが、先代は親戚中からお金を借り対処してくれました。これにより現在に至るまで焦げつきは0に近いもので推移しています。

昭和47年1月
『株式会社大高商店に組織変更』

苦しい最中の組織変更だったのですが、心機一転道路用砕石に目を向けます。

昭和52年1月
『資本金300万から750万に増資』

ようやく道路用砕石の販売に踏み出し営業も功を奏し売上も一日当り30台以上と順調に延び借入金返済も目に見える早さで進みました。この頃事業拠点も現本社150坪から借地ではあるが東名厚木インター近くに600坪を設け、右肩上がりとなります。追風を受ける様に厚木インター周辺の区画整理事業がスタートします。

昭和56年6月
『資本金750万から1200万に増資』

この頃現専務取締役岡村純枝が入社します。先代よりその誠実さと勤勉さを買われ2年後に取締役に就任します。

昭和60年3月
『現社長専務を経て社長に、元社長は会長にと、取締役を経て岡村純枝が専務取締役に就任』

大型債権を背負ってから13年、無借金経営に転換した時の故会長の人事でありこの頃から残土処分にも積極的に手を延ばして行きます。新社長の若さも手伝い売上も一日当り40台以上とうなぎのぼりになりますが創業以来現在まで無借金経営はこの時の1年足らずに過ぎません。

昭和60年9月
『土木舗装工事業許可取得』

残土処分の仕事が増加し延長線上に積込作業があります。建設業法上上記の県知事許可が必要になります。現社長(以下社長)は、土木工事国家試験にパスし、建設会社の資格を取り、建材会社と平行して業務を遂行して行きます。ただ得意先建設会社に迷惑がかからない程度に、あくまで下請に徹する事を信念とし、それなりの方針を立てます。

昭和61年9月
『重機部開設』

ダンプの他に重機は積込用ホイールローダーがありました。加えて掘削用タイヤコンボを購入し土木工事の下請としてダンプ事業をささえるべく順調なすべり出しを見せます。大手道路会社との取引も6社を越え道路掘削による残土処分と砕石販売は一日50台を越える規模にふくれあがり年間売上も3億に到達します。

昭和62年5月
『先代去る』

一年の闘病生活の末先代大高トメ5月大高修次郎6月共に入院先で死去。戦後の一時代が終り新しい未来への挑戦こそが使命だと決意を固めます。それを追いかける様に翌年、昭和から平成へと変わります。そして世の中はバブルへと突進して行き今でこそ言えるが「浮かれた人々」でごった返します。

平成3年11月
『産業廃棄物収集運搬業許可取得』

この頃より壊して造るが市民権を得る様になり、解体業者が増えると共に老朽化を向かえる建物は次々に壊されて行きます。新法が生まれそのがれき類を運搬するには上記の許可取得が義務づけられ、砂利・砂からスタートした弊社には砕石・残土・ガラ(がれき類)と販売の三本柱が出来上がりました。現在もその方針をつらぬいています。バブル真っ只中の弊社の年間売上は史上最高の4億に達し、一日の売上も60台以上に延びます。

平成8年5月
『一般貨物自動車運送事業許可(神奈川)取得』

ただただA地点からB地点まで荷主の依頼を受け運搬する事を運送業と言い陸運局の許可が必要です。様々な安全基準をクリアーしつつ営業を続ける緑ナンバーは無事故無災害を将来に馳せたシステムと考えを新にし、その許可取得に必要な運行管理者国家資格試験に社長がパスした上での運送業許可取得でした。この頃バブルは崩壊し倒産会社が相次ぎました。弊社の年間売上も3億を切り運転資金としての借入金が発生しました。

平成14年4月
『静岡県御殿場市に事業所開設』

社長の個人的想い出がつまった富士スピードウェイの改修(大成建設)地元R246拡幅(大成ロテック)アウトレット建築(大成建設)新東名基礎工事等大物工事受注の為正式に陸運局認定の事業所を開設。地元業者と連携を取り初めての出先機関も無事形を成し車輌も発足当時5台から7台に増える業績となりました。事業所はこの後10年営業を続けますが、全盛期は5年で残り5年は名前ばかりとなり後に廃止となります。売上も神奈川と合わせて2億5千万まで下がり、攻めから守りの経営に転じます。

平成19年6月
『厚木事業所に12tダンプを導入』

法の改正により新規格車(総重量22t積)いわゆる12t車を輸送の円滑化を目的とし、この年2台導入しました。業界の将来を見据えるべく決断ではありますが、先代より受け継いだ1+1=2と言う永年の堅実経営の中初めての賭けにふみ出します。少ない情報を頼りに「たぶん」で将来を予測する、そんな経営を初めて実践します。

平成20年1月
『シティーダンプ日野GKの導入』

燃料費の高騰と運搬費の値下がりで運送業は冷え込みます。対処としてがれき類運搬における平坦路走行に視点を置き低燃費、低価格(車輌の値段)輸送量増大と一見良いとこづくしの日野GK(欠点低馬力)を運転者の理解のもとこの年3台導入しました。結果として成功を実感しました。が、同業他社の誹謗中傷を小耳にしながらの決断でした。5年経過した現在ミキサー車の70%が導入し、県内のダンプ業界はまだ1%未満です。また、バブル崩壊による借入金もようやく完済近くなりますが、リーマンショックがやってくるのです。

平成22年6月
『新厚木事業所開設』

本社こそ社有であるが、過去の事業所(富士スピードウェイ近くの御殿場事業所、厚木インター近くの厚木事業所)は共に借地でした。縁あって購入出来た厚木市温水の土地310坪は弊社創業以来初めての事業所用社有地になります。社長の私入社以来44年の歳月の上に成り立つもので先代修次郎・トメも目を細めているものと確信します。が購入費用は100%金融機関よりの借入金で成し得たもので、今後その返済が重要なテーマとなります。さいわい新事業所スタート後目まぐるしい程の小さな変化が訪れ決算は増収増益を辿りました。変化その他は、今後HPでお知らせできることになるでしょう。

平成24年1月
『静岡県御殿場市事業所の廃止』

10年続いた事業所も後半5年は名ばかりで大物工事は終了し地元工事も下降線をたどり神奈川が主流になります。事業所として法的に休止が出来ない現実も踏まえやむなく廃止となりました。

平成24年2月
『創業以来63年の車輌カラー緑から新たに縦割りのツートーンを導入』

シティーダンプの銘柄を日野からいすゞへと変更し、その塗装を永年の緑からツートーンにし実力と知名度を高めると共にさらなる会社の充実と発展の為、心機一転を試みた。この1年の反響は想像以上のものがありそのことも今後HPにてお知らせできます。

平成25年5月
『遅ればせながらホームページを開設』

今後の社の信頼性とPRを目的としホームページを開設中です。好期や失敗、発展や衰退等変化の報告を自身の叱咤にし、より堅実な社会の一員を目指します。分厚い上着を脱ぎ透明性と機敏さの中にこそ出番があると確信します。

平成27年11月
『試験的にトレーラーダンプを導入する』

中古で試験的に導入したものの神奈川の反応は予想を反し冷たいものになりました。中古でネット販売の為現物も見た目が悪く失敗に終わりました。一年後の新車を予約し転売しました。

平成29年4月
『本格的にトレーラーを導入』

弊社の目標・計画・紹介コーナーで詳しく説明していますが、この月予約より半年遅れて計4台のトレーラーダンプが納車になりました。取引のあるスーパーゼネコンとのお付き合いを平常通り進めるためにもコンプライアンス(法令遵守)にのっとり、特殊車両通行許可の取得が最優先になります。しかしながら申請から2か月が過ぎ未だ許可が下りない状態です。何事も目新しい計画には壁が付きもので、手探りの作業は当分続きそうです。

平成30年10月
『創業以来71年ぶりに社名変更』

拝啓 時下ますます御清栄のこととお喜び申し上げます。昭和42年創業、昭和42年会社設立、以来現在まで、先代創業者大高修次郎より続いております、称号「株式会社 大高商店」は平成30年10月1日、当社設立51周年より「サマンサアーミー株式会社」に変更させていただく事となりました。戦後の称号に多く用いられました「商店」を創業以来71年目にして大きく変更するは、社の永久存続と永久繁栄への意思の強化、決して萎縮する事の無い生命力の維持等、多種多様の起因に寄るものでございます。また新社号の由来でありますが、社業の歴史と経験の中様々な意味合いと希望がございます。一口で申しまするに、先祖からの「御告げ」と軽く流していただけたらとも思います。取引会社様、支えて下さる方々を始め皆々様にはお耳を疑う様な結果にはなりましたかと存じます。しかるに、誠意と耐久力の充実、日進月歩の進化を確くお約束した上でのご理解を承りたいと考えております。なにとぞ新社名「サマンサアーミー株式会社」と当社車両オリジナルツートーンカラーを旧社名(株)大高商店同様、相変わりませぬ御愛顧の程、精一杯お願い申し上げまして、社名変更の御報告とさせていただきます。 敬具 以上が関係各位に送付したお知らせの内容です。

令和3年10月
『ガラ売上が50%以上をしめる』

トレーラーダンプでの残土仕事はボディーに残土がこびりつきドライバーにとって厳しい世界です。そこで少しづつガラ運搬処分に力をそそいで来ました。ドライバーにはこの仕事の方が労力が少なく回転も早くなります。おかげ様をもちまして第53期の売上の半分以上がガラ関係になり皆様の応援のたまものと感謝しております。